ドフトエフスキー『罪と罰』感想
作品紹介
1866年に書かれた『罪と罰』(つみとばつ、ロシア語: Преступление и наказание)は、ロシア文学の巨匠 フョードル・ドストエフスキーの代表作のひとつであり、現在でも世界中で読まれている名作である。
あらすじ
鋭敏な頭脳をもつ貧しい大学生ラスコーリニコフは、一つの微細な罪悪は百の善行に償われるという理論のもとに、強欲非道な高利貸の老婆を殺害し、その財産を有効に転用しようと企てるが、偶然その場に来合せたその妹まで殺してしまう。この予期しなかった第二の殺人が、ラスコーリニコフの心に重くのしかかり、彼は罪の意識におびえるみじめな自分を発見しなければならなかった。
登場人物
ラスコーリニコフ
この物語の主人公。23歳無職の元法科大学生。
栗色の髪と澄んだ黒い目をもつ美青年。背丈はやや高く、痩せ気味でバランスのいい体型
ふさぎ虫で自尊心が高く怒りっぽい気難しい性格。懐疑的で理論的。
無神論者でニヒリスト。
貧困による学費滞納のために除籍処分を受けている。
ラズミーヒン
ラスコーリニコフの親友。
性格は、ラスコーリニコフとは対照的に社交的で面倒見がよく、明るく真面目な青年。
周囲の人々からの人望が厚く、最後までラスコーリニコフが潔白であることを信じていた。
ドゥーニャ
ラスコーリニコフの妹。
芯が強く、教養があり、聡明で多くの男性を虜にする美人。
ラスコーリニコフと母のために、婚約をする。
ソーニャ
ラスコーリニコフが罪を告白する最初の人物。
家族のために売春婦になる。
苦しい状況の中でも、神の存在を信じ、人を愛する美しい心を持つ。
スフィドリガイロフ
妻帯者でありながら、淫蕩に耽り、家庭教師として雇ったドゥーニャに好意を抱く。
ラスコーリニコフがソーニャにした罪の告白を盗み聴く。
狡猾な手法でドゥーニャと接触し、想いを告げるも破れて自殺する。
ポルフィーリー・ペトローヴィチ
予審判事。鋭い洞察力を持ち、ラスコーリニコフの言動を分析し、心理的証拠を導き出す。
頭脳明晰なラスコーリニコフのさらに上を行く鬼気迫る論戦を展開する。
アリョーナ・イワーノヴナ
ラスコーリニコフに殺害された老婆。悪徳な高利貸しとして有名。
人物をグループ分けしてみた
さきほど紹介した人物はごく一部で、この物語には多くの人物が登場する。
人物の共通点を見つけることによって物語は理解しやすくなる。
例えば、ラスコーリニコフとスフィドリガイロフはニヒリストと言う点で共通しており、前者は聖なる娼婦ソーニャの愛によって救われるが、後者はドゥーニャへの愛に破れて自殺するという対照的な結末を迎える。
そして、ドゥーニャとソーニャは家族のために自己を犠牲にするという点で共通している。
グループ分けすると、
①ラスコーリニコフをはじめとする独りよがりで自尊心の高いグループ
②ドゥーニャをはじめとする自己を犠牲にしたり、支援することで他者に献身するグループ
③ポルフィーリーをはじめとする中立的な役人グループ
④アリョーナ・イワーノヴナをはじめとする人を騙して不幸に引きずり込もうとする蛇(足が不自由な人物が多い)グループ
といった感じです。読み進めながら分類するとわかりやすいです。
そして主要な点をあげると
①貧困
②キリスト教的と実存主義
③主人公ラスコーリニコフの心理描写
が本作品の見どころだと思う。
戦争の歴史における英雄ナポレオンと、平和な社会において人を殺した者は同じ行為であっても一方は臆することなく称賛され、一方は罪の意識にさいなまれながら非難され裁かれる。同じ行為であっても時代や環境によって善悪はオセロのように裏返ってしまうのだと思った。
ラスコーリニコフの思想
殺人の動機ともいえる、物語における重要なラスコーリニコフが論文で発表した思想。
人間は自然の法則によって二つの層に大別されるということです。つまり低い層(凡人)と、これは自分と同じような子供をうむことだけをしごとにしているいわば材料であり、それから本来の人間、つまり自分の環境の中で新しい言葉を発現する天分か才能をもっている人々です。
頭脳と精神の強固な者が、彼らの上に立つ支配者となる!多くのことを実行する勇気のあるものが、彼らの間では正しい人間なのだ。より多くのものを蔑視することのできる者が、彼らの立法者であり、誰よりも実行力のある者が、誰よりも正しいのだ!これまでもそうだったし、これからもそうなのだ!それが見えないのは盲者だけだ!
大きな目的が善をめざしていれば、一つくらいの悪業は許される
一つの悪と百の善行です!
名言
上巻
人間なんてあさましいものだ、どんなことにでも慣れてしまうのだ!
どんな人でもよく知るためには、ゆっくり時間をかけて注意深くつきあってみなければならぬものです。さもないとまちがいや偏見にとらわれてしまって、あとになってそれを直そう、消そうと思っても、なかなかできるものではありません。
正直で涙もろい人間はややもすると打ち明け話をする。すると腕っこきな人間はそれを聞いていて、食いものにする。そのうちにすっかり食いつくしてしまうというわけさ。
嘘をつくということはすべての生物に対する唯一の人間の特権です
苦悩と苦痛は広い自覚と深い心にはつきものだよ。真に偉大な人々は、この世の中に大きな悲しみを感じとる。
下巻
もっとも、だいたいわがロシアの社会では、もっとも態度のりっぱなのは、よくかもにされる連中なんですよ
子供たちは未来の人類なんだよ
コンミューンではその役割は現在のその本質をすっかり変えてしまいます。そしてここで愚劣と思われているものが、あちらでは知性あるものとなりますし、ここで、現在の環境で不自然なものが、あちらではまったく自然なものとなるのです。いっさいは人間がどんな事情とどんな環境の中におかれているかによるのです。すべては環境に支配されます、人間自体は無に等しいのです。
ぼくは婆さんじゃなく、自分を殺したんだよ!あそこで一挙に、自分を殺してしまったんだ、永久に!
この世には正直ほど難しいものはないし、お世辞ほどやさしいものはありません。もしも正直の中に百分の一でも嘘らしい音符がまじっていたら、たちまち不協和音が生れて、そのあとに来るのはーースキャンダルです。またその反対にお世辞はたとい最後の一音符まで嘘で固まっていても、耳にこころよく、聞いていて悪い気持がしないものです。たといごつごつした無茶なお世辞でも、必ず少なくとも半分はほんとうらしく思えるものです。しかもこれがどんな文化人でも、社会のどんな階層でもそうなんですよ。お世辞にかかっては尼さんだって誘惑されますよ。
誰だって自分のことは自分で考えますよ、そして誰よりも自分をうまく欺せる者が、誰よりも楽しく暮せるってわけですよ。
誰も彼も酔っぱらっている。教育ある青年たちが退屈のあまり実りそうもない夢や妄想に情熱をもやして、片輪な理論におぼれていく。どこからともなくユダヤ人どもが集まって来て、金をさらってしまう。あとの連中は女と酒におぼれている。
現代は何もかもすっかり濁ってしまいましたよ、と言って、しかし、これまでだって、特に秩序が正しかったことは一度もありませんがね。
失敗すれば何でも愚劣に見えるものさ!
悪事とはどういう意味だ?俺の良心は平静だ。もちろん、刑事上の犯罪が行われた。もちろん、法律の文字が破られ、血が流された。じゃ法律の文字の破損料としておれの首をとるがいい......それでいいじゃないか!だが、そうすれば、もちろん、権力を継承によらず自分の力で奪い取った多くの人類の恩人たちは、その第一歩において処刑されていなければならぬはずだ。しかしその人々は自分の一歩に堪えた、だから彼らは正しいのだ。だがおれは堪えられなかった。だから、おれには自分にこの一歩を許す権利がなかったのだ。
感想
「罪と罰」は長編なのでかなり読み応えがあった。
— hikki (@hikki_c) 2017年10月4日
この本を読んだタイミングが個人的に不思議な共通点があったので、その意味でもかなり印象の強い作品。
こんな文章を書ける人間が100年以上も前に存在していて、インターネットが未開の時代でも人の本質は変わらないのだということが衝撃的だ。