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ドストエフスキー『地下室の手記』人間の非合理性と社会主義との矛盾への批判

 

Story

極端な自意識過剰から一般社会との関係を絶ち、地下の小世界に閉じこもった小官吏の独白を通して、理性による社会改造の可能性を否定し、人間の本性は非合理的なものであることを主張する。人間の行動と無為を規定する黒い実存の流れを見つめた本書は、初期の人道主義的作品から後期の大作群への転換点をなし、ジッドによって「ドストエフスキーの全作品を解く鍵」と評された。

Report

作品成立の背景

この作品が執筆された背景には、西欧から押し寄せた時代の波に影響を受けたロシア社会に対する批判がある。

本書の発表されたのは1864年。ドストエフスキーは、1862年に初の西欧(パリ、ロンドン)旅行を行い、翌1863年に再び西欧を訪れている。この頃の彼の西欧外遊についてはゴシップやルーレットによる蕩尽などが語られることがもっぱらである。しかし、当時の西欧は、英国の生物学者、チャールズ・ダーウィンによる『種の起源』公表(1859年)に端を発する大論争の最中であり、フランスではエルネスト・ルナンによるキリストの「人間宣言」(1862年)が問題になっていた。

そして、彼の祖国ロシアでも、西欧流の思想、ヴェーバーの言葉を借りれば脱魔術化の波が押し寄せていた。そんな中で、彼は社会主義によって作られる、合理的で、理想的な世界を否定し、人間は非合理的、非理性的な生物であるのだと異を唱えている。

 

人間は理にかなわない生き物である

プロローグで作者は、西欧流の近代化や理性主義に次のような主張をしている。

「万国史においてただ一つ言えることは人間が理性にかなわぬ動物である」

「苦悩から逃れるためだけに、無限循環のゼロ=水晶宮(ユートピア)に安住などはしない。」

有史以来、人間が自分の利益だけから行動したなどという実例があるだろうか?人間はしばしば、自分の真の利益をよくよく承知しながら、それを二の次にして、一か八かの危険をともなう別の道へ突き進んだものだ、いや、そのことを証明する幾百万もの事実をどうしてくれるのだ?しかも彼らは、だれかれも、何からも強要されてそうしたわけではない。ただ指定された道を行くのだけはごめんだとばかりに、それとは別の困難な、不条理な道を、それこそ暗闇をてさぐりせんばかりにして、強情に、勝手気ままに切りひらいてきたのだ。

つまり、人は「理性」「名誉」「平和」「幸福」といった一般的に有益だと思われているものに逆らっても、自分にとって本源的な、より有益だと思うものを手に入れようとする。そして、この利益は、人類愛の唱道者たちが作り上げた幸福のシステムをつねに叩きこわすものである。

 

また、科学によってこの世界の自然法則を解明し、人間のすべての行為はこの法則によって数学的な正確さで計算され、完璧に整備された新しい経済関係がはじまり、あらゆる問題が消滅し、徹底した合理主義の理想社会が出来上がるという西欧の考えを否定している。

しかし、それにしても、二二が四というのは鼻持ちならない代物である。二二が四などというのは、ぼくにいわせれば、破廉恥以外の何物でもない。二二が四などというやつが、おつに気取って、両手を腰に、諸君の行く手に立ちはだかって、ぺっぺと唾を吐いている図だ。二二が四がすばらしいものだということには、ぼくにも異論がない。しかし、讃めるついでに言っておけば、二二が五だって、ときには、なかなか愛すべきものではないのだろうか。

 

たとえば、ぼくなどは、もし未来の合理主義一点張りの世のなかに、突如として次のような紳士がひょっくり出現したとしても、一向に驚かないつもりである。その紳士は顔つきからして恩知らずで、いや、というより、冷笑型の反進歩的容貌としておいたほうがいい、両手を腰にあててふんぞり返り、僕ら一同に向って云うわけだ。<どうです、諸君、この理性万能の世界を、ひと思いに蹴とばして、粉微塵にしてしまったら。なに、それも目的があってのことじゃない。とにかくこの対数表とやらをおっぽり出して、もう一度、ぼくらのおろかな意志通りの生き方をしてみたいんですよ!>これもまあいいとしよう。だが、癪なのは、この紳士にかならず追随者が現れる点である。だいたいが人間はそういうふうにできているのだ。

 

たとえば、いつの日か、ぼくらの恣欲や気まぐれやらの方程式がほんとうに発見されてだ、それらのものが何に左右されるか、いかなる法則にもとづいて発生するか、どのように拡大していくか、これこれの場合にはどこへ向って進んでいくか、といったようなことがわかってしまったら、つまり、ほんものの数学的方程式が発見されたら、そのときには人間、恐らく即座に欲求することをやめてしまうだろう、いや、確実に辞めてしまうに違いない。だいたい、一覧表に従って欲求するなんて、糞面白くもないだろう?それどころか、そうなったら人間は、たちまち人間であることをやめて、オルゴールのピンみたいなものになってしまうだろう。なぜって、欲望も意思も恣欲もない人間なんて、オルゴールの回転軸についているピンもいいところじゃないか?

 

つまり、人間に十二分の経済的満足とあらゆる幸福を浴びせかけたところで、人間はその恩知らずで無分別な性質から、オルゴールののピンではなく人間であるのだと主張したいがために愚行に走ったり、破壊や混沌までも愛するのだ。

 

社会主義社会への批判

われわれロシア人には、一般的に言って、ドイツ流の、ましてやフランス流の現実ばなれした馬鹿げたロマンチストはかつて存在したためしがなかった。つまり、足元の大地が裂けようと、全フランスがバリケードの上で死に絶えようと、びくりともするものでもなく、たとえ義理にでも変わってみせようことか、あいも変わらず自分たちの現実ばなれした歌をうたいつづける、要するに、馬鹿は死ななきゃ直らない、と言った手合いである。ところが、わがロシアの地には、馬鹿がいない。これは周知の事実で、そこにこそ、ドイツなどのほかの土地とわが国の相違点があるのである。したがって、現実ばなれしたロマンチストも、わが国では純粋の形では育たない。(中略)わがロマンチストの性格は、ヨーロッパ流の現実ばなれした連中とはまったく正反対で、ヨーロッパ流の物指など、どれもこれも物の役にも立ちはしないのだ。

西欧とロシアは国民の性質という根本的なところから違うので、西欧の思想という服を借りてロシアに着せてみたところで、自分に合わない服を着こなすことなどできないのだと主張している。

人類にとってのゴールとは何なのか

そして、人間は創造的な動物であり、道を切り開いていく使命を負っているが、目的達成のためのプロセスだけを好み、目的に到達し、もう何も探すものがない状態になることを本能的に恐れているという。

人類がこの地上においてめざしているいっさいの目的もまた、生そのもののなかにこそ含まれており、目的それ自体のなかには存在していないのかもしれない。

人間の生きる意味は生きることにあって、そこに目的は存在しないということだろうか。

つまり、何かを求め彷徨い生きていくことが人間の本質であって、探し当てることは望んでいないということだろうか。

 

ハンターハンター(漫画)に、主人公の父親のジンと言う人物の「大切なものは欲しいものより先に来た」というセリフを思い出しました。

オレはいつも現在オレが必要としてるものを追ってる。実はその先にある「本当に欲しいもの」なんてどうでもいいくらいにな。ネットで知り合って、オフ会で意気投合したそいつらは皆オレより年上で、普通の会社員や院生やフリーターだったりした。オレの素性と計画を打ち明けたら連中は、法人設立に関わる雑事を進んでこなし、なけなしの生活費から寄付までくれた。念願かなって、王墓の中に足を踏み入れたとき、オレが一番嬉しかったのは、ずっと願ってた王墓の「真実」を目の当たりにした事じゃなく、一緒に中へ入った連中と顔を見合わせて握手した瞬間だった。そいつらは今も無償で役員をしながら、オレに生きた情報をくれる。この連中と比べたら、王墓の「真実」はただのおまけさ。大切なものは、欲しいものより先に来た。