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高野悦子『二十歳の原点』自らの命を絶った女子大生の日記

 

「独りであること」
「未熟であること」
これが私の二十歳の原点である。

 

あらすじ

立命館大学文学部日本史学専攻の高野悦子さんが、中学生~自ら命を絶った大学二年生までの日記。理想の自己像と現実の自分の姿とのギャップ、青年期特有の悩みや、生と死の間で揺れ動く心、鋭い感性によって書かれた自作のなどが綴られている。学生運動が盛んだった1960年代末期を代表する作品であり、現在でも取り上げられることが多い。

感想

この本を読み終わったとき、50年以上も前に書かれた本とは思えなかった。

そしてこの本は太宰治の書いた「人間失格」に近いものを感じた。

両者を比較すると、「人間失格」は大人になったひとつの地点から、つまり過去から現在までを綴っているが、「二十歳の原点」は中学、高校、大学と言った現在の連続を書き溜めている。 

「人間失格」には文学的要素があるけれど、「二十歳の原点」にはリアリティがあるのだ。

彼女が生きた一瞬一瞬がそこには刻まれていて、そして彼女の世界に対する鋭い観察眼にはとても驚いた。

彼女はどんな時でも世界をまっすぐに見ようとし、そして激しい学生運動のなかでその命を終える。

 

肉体は人間が生命活動を続ければ勝手に成長するけれど、精神の成長というものはとても難しいと感じる。

肉体が大人になっても精神が成長していない人はたくさんいるし、精神は肉体の成長のように成熟というものがない。 

しかし、精神が成長したからと言って、生きることにおいて必ずしも強くなるわけじゃなくて、むしろ自分自身や世界が揺らいだりすることもある。

うーん、人間ってバランスのわるい生き物だなぁ。

太宰も高野さんもとても魅力的で聡明な人なだけに自らその命を絶ったことを残念に思う。

彼らには、もっとたくさんの作品を残してほしかったな。 

高野悦子さんの名言集

私は慣らされる人間ではなく、創造する人間になりたい
「高野悦子」自身になりたい
テレビ、新聞、週刊誌、雑誌、あらゆるものが慣らされる人間にしようとする
私は、自分の意志で決定したことをやり、あらゆるものにぶつかって必死にもがき、
歌をうたい、下手でも絵をかき、
泣いたり笑ったり、悲しんだりすることの出来る人間になりたい
(1月2日)

 

青春を失うと人間は死ぬ
だらだらと惰性で生きていることはない
三十歳になったら自殺を考えてみよう
だが、あと十年生きたとて何になるのか
今の、何の激しさも、情熱ももっていない状態で生きたとて
それが何なのか
(4月9日)

 

よく人は、私が変っているといいます
しかし私は、自分こそ正常な人間であると思っています
不正を憎み、何よりも正義を愛しているやさしい人間であります
今の社会が偏見と不正に充ちていて不正常なのです
(4月29日)

 

どうしてみんな生きているのか不思議です
そんなにみんなは強いのでしょうか
私が弱いだけなのでしょうか
でも自殺することは結局負けなのです
死ねば何もなくなるのです
死んだあとで、煙草を一服喫ってみたいといったところで、
それは不可能なことなのです
(4月29日)

 

ああ人間はくだらない、卑小だ
大ていの人間は、人間の人間たるを知らずして
社会の中に埋没してただ生きているのだ
自由! 私は何よりも自由を愛す
(4月29日)

 

生きることは苦しい
ほんの一瞬でも立ちどまり、自らの思考を怠惰の中へおしやれば、たちまちあらゆる混沌がどっと押しよせてくる
思考を停止させぬこと
つねに自己の矛盾を論理化しながら進まねばならない
私のあらゆる感覚、感性、情念が一瞬の停止休憩をのぞめば、それは退歩になる
(6月1日)

 

私の闘争は人間であること、人間をとりもどすというたたかいである
自由をかちとるという闘争なのである
人間を機械の部品にしている資本の論理に私はたたかいをいどむ
(6月9日)

 

ああ、人は何故こんなにしてまで生きているのだろうか
そのちっぽけさに触れることを恐れながら、それを遠まきにして楽しさを装って生きている
ちっぽけさに気付かず、弱さに気付かず、人生は楽しいものだといっている
(6月17日)

 

今や何ものも信じない
己れ自身もだ
この気持は、何ということはない
空っぽの満足の空間とでも、何とでも名付けてよい、そのものなのだ
ものなのかどうかもわからぬ
何もないのだ
何も起らないのだ
独りである心強さも寂しさも感じないのだ
(6月22日)

 

「恋愛とは、独立した人格をもつ男と女との間における人間関係である」 
(序章、12月10日)