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川上未映子『ヘヴン』

 

あらすじ

十四歳のある日、同級生からのいじめに耐える“僕”は、同じクラスの女子コジマから“わたしたちは仲間です”と書かれた手紙を受け取る。苛められる者同士が育んだ密やかで無垢な関係は、しだいに奇妙なものへと変容していく。葛藤の末に選んだ世界で、僕が見たものとは。善悪や強弱といった価値観の根源を問い、圧倒的な反響を得た著者の新境地。芸術選奨文部科学大臣新人賞・紫式部文学賞ダブル受賞。 

 

感想

まず最初に、この小説は「いじめダメゼッタイ。みんなで仲良くしよう。」といった道徳を説く作品ではない。テーマはいじめ、善と悪、宗教である。目を覆いたくなるような残酷ないじめが描かれている。そして、これらのテーマの象徴ともいえる登場人物が二人。

  • 同じクラスの女子「コジマ」
  • 直接的に関与していないが、いじめっ子グループの「百瀬」

「コジマ」の主張

「コジマ」はコジマ・ワーグナーからその名をとったという。ワーグナーと親交が深かったニーチェは以下のようなことを述べている。

私が自分と同等の人間であると認めている唯一の場合が
存在する。私はそれを深い感謝の念を籠めて告白する。
コージマ・ワーグナー夫人は比類ないまでに最高の高貴な
天性の持ち主である

(『この人を見よ』ニーチェ)

 「コジマ」は「僕」にとって唯一の同等の存在だったということだろう。「コジマ」は不潔と悪臭でクラスの人から嫌われている。汚くしているという事実と斜視という事実で「僕」とは仲間としてつながっていると主張する。「コジマ」はこの主張を貫くことによっていじめを乗り越えられると信じている。その証拠に物語が進んでもいじめが改善されないと断食に近いことをすることによって困難を乗り越えようとする。これはキリスト教における信仰により贖罪を得ようとする行為に他ならない。そして、「コジマ」は言う。「そういう神様みたいな存在がなければ、色々なことの意味がわたしにはわからなすぎるもの」と。彼女の信仰の先にあるものは「ヘヴン」である。

百瀬の発言

いじめられっこの「僕」が「百瀬」に対して何故いじめをするのか?という問いをする。それに対し「百瀬」は以下の返答をする。

 

「権利があるから、人ってなにかするわけじゃないだろ。したいからするんだよ」

 

「放っておいてほしいと君が感じるのはもちろん百パーセント、君の勝手だけど、まわりがそれにたいしてどう応えるかも百パーセントまわりの勝手だ」

 

「君のことをロンパリと呼んでるのも知ってる。でもさ、そういうのってたまたまのことであって、基本的なところでは君が斜視であるとかそういったことは関係ないんだよ。君の目が斜視っていうのは、君が苛めを受けてる決定的な要因じゃないんだよ」

 

「たまたまっていうのは、単純に言って、この世界の仕組みだからだよ」

 

「君の苛めに関することだけじゃなくて、たまたまじゃないことなんてこの世界にあるか?」

 

「僕の考えに納得する必要なんて全然ないよ。気に入らなきゃ自分でなんとかすればいいじゃないか」

 

「なあ、世界はさ、ひとつじゃないんだよ。みんながおなじように理解できるような、そんな都合のいいひとつの世界なんて、どこにもないんだよ」

「百瀬」は中学生にしてはあまりにも達観しすぎているので、ここでは個人として考えるよりも何かの象徴として考えることが妥当だと思う。つまり、「百瀬」はキリスト教的な価値観に対立するニーチェ的挑戦の象徴である。

宗教か実在か

神を信じる「コジマ」と実存を象徴する「百瀬」。

この物語は、生を突き詰めたときに人間が拠るべきは宗教的普遍なのか実存なのかを問いかけている。「いじめ」という根深い問題を善悪という二元論から切り離して考えなけばいけないという警鐘を作者は鳴らしている。ラストシーンで、いじめられる原因となった斜視を治療した「僕」はいつもの並木道を歩きながら「美しい」と感じる。そしてこう思う。

「しかしそれはただの美しさだった。誰に伝えることも、誰に知ってもらうこともできない、それはただの美しさだった」

このシーンはサルトルの『嘔吐』で主人公ロカンタンが、マロニエの木の根を見て嘔吐する有名な部分に呼応している。

所説あるが、

「存在というものは、物事の必然でもってそこに存在するのではなく、ただ存在がそこにあるというものなのだ」

これは実存が本質に先んじる、「実存主義」という考え方からきているそうだ。斜視を治療した「僕」はそこに存在する立体的な光景をただ美しいと感じた。はじめて世界というものをしっかりと見た瞬間だ。

信仰ではなく実存を手に入れた「僕」。彼は世界にこれからどんな意味を見つけていくのだろうか。

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